老人の恋
介護で働いていた頃。
グループホームは、24時間寝食を共にする、赤の他人との生活である。
男女混合で、介護度の違う老年の方々。
そこには、男もいれば女もいるし、そして恋も生まれる。
A介さんの寝室に、夜中こっそり入っていくB子さんもいるし、90近い男性が夜間の巡回の際、オナニーしていることもある。
そこに、あらたに、Cさんという、おとなしく控えめな80代の女性が入居してきた。Cさんは、旦那さんが亡くなって認知症を発症したらしい。
始めの二か月は心を開かなかったCさんは、入居当初、すこし、物忘れの激しいくらいの症状で、認知症でここに来るほどではないと思っていたのだが、しだいに職員や入居者と顔なじみになり、認知症の周辺症状が増えていった。
ずっと、緊張していたのだろう。顔なじみができて、緊張の糸がほぐれたのだ。
それから、Cさんは、夜中に居室から出て
「お○○んこー。」と言ったり、チラシの裏に、亡くなった旦那のペニスの事や、性行の様子を書いて、枕の下にかくしていたりした。
そのころ、A介さんは、B子さんに言いよられて、食堂の隅にある観葉植物の後ろでキスや、性器を触りあっていた。
これは、大問題だと、職員会議を行い、二人を職員は監視し、近づいて、B子さんが、A介さんに、甘えた声で話す場面を見ると、それとなーく、引きはがした。
A介さんの妻は亡くなっていたが、B子さんの旦那さんは健在だった。
いわゆる不倫というやつ。
時々、子供のように寂しくて夜眠れない入居者がナースコールを頻繁に押すため職員がおとずれると、胎児のように丸まって、泣いている時、添い寝することもある。
私を妻だと思い、入浴介助中におっぱいをさわる入居者もいる。
性欲は、寂しいのだ。食欲は、辛い。睡眠欲は休みたい。
ある時、わたしはB子さんに、
「なんで、私の恋路を邪魔するの?悪い事なの?意地悪だね。」
と言われた。
それから、私は、食べたくない老人に、無理矢理でも流動食を作ってなだめすかし、時には、同情を交えながら「私、一生懸命作ったんです。これ、食べてくれないと、悲しい。」なんて、セリフをいいながら、一日の水分量、食事量、排せつ量を記録し、達成できないグラフに頭を抱えていた。
なんか、違うかも。とか薄々感じていた。
ある入居者の担当になり、私は、その方との距離感をうまく出来なかった。
入居者は、五分おきに、
「胆石さん、トイレ!」と私を呼び、実際にトイレに行くと何も出ない。
その間も。独歩をする方の付添もしなければならないし、オムツから便を取り出して食べようとする方の静止もしないといけないし、隙あらば、エレベータに乗って、自宅に帰ろうとする方も見なければならない。
いろんなことで、私は限界をむかえた。
「トイレ、って、いっても出ないのに、なんで呼ぶんですか!」
私は、少し、イライラして言ってしまった。
そう、本当は、すごくすごく分かっている。
だって、寂しいんだもの。寂しいというのは、辛いことだもの。
一年後、私は仕事を辞めた。逃げた。
異常気象のニュース
猛暑のニュースが流れ続けている。
今日は、過去最高気温だ、とか、何年に一度の気象現象だとか。
何人が熱中症で搬送され、今月中に何人亡くなったとか。
フェーン現象だとか、なんだとか、ノストラダムスの予言みたいなもの、心のどこかで求めている。
それは、冬でも夏でも春でも秋でも。いつでも、ニュースは異常気象を伝えている。
桜が、この時期に咲くことは今までなかった。とか。
川に大量のクラゲが発生している、とか。
「ずっとここに住んでるけどね、これほど雪が降ることなんか、今までなかったよ。」と地元民のおじいちゃんががインタビューに答える。
雪害についても、キャッチーな画面で、これだけ雪が降って、ガレージがつぶれました。と映している。
気象災害を取り上げすぎのような気がする。記録的豪雨、記録的大雪、記録的気温。
毎年、そうテレビは言ってる。記録的。と。
常に、不安になりたい私たちは、心のどこかで、そのフレーズを待っている。
もちろん、メディアが大きく取り上げることによって、
「野球部のときはさ、ほんとキツクて、こっそりトイレの水とか、水たまりの水さえのんだもんな。」とかいうサラリーマンが減ることに貢献しているとは思う。
彼らは、それを武勇伝のように語るが、それは時代がそうさせなくなってきているのは非常に良い事のように感じる。
地球が滅亡に向かっているように捉えたい。
全部、一度、ゼロにしたい。
子供の頃、台風が来て、家の瓦が飛ばされたとき、私は素直に嬉しかった。
このまま、家も飛ばされて、そして、みんないなくなって、一からやり直せるか、ゼロになるか。
日本の少子化を懸念する声も、心地よい。
発展は、一見、希望に満ち溢れ、私たちの生活を豊かにするように思うのだけれど、大体みんな実は分かっている。
一度、自分の実害の無いところで、リセットできたらいいのに、という気持ち。
死にたくはない、でも、このまま生きていくことにもなんだか満足できない、だったら、全部リセットしてみたい。不謹慎。
不謹慎のきもち、やましさが、びみょーに分かるから、否定したくなって、SNSで不謹慎を叩いて、叩くことで自分が叩かれないラインに居られるはずだと。
人間は、明らかに増えすぎていて、このままいけば、食糧問題や、石油問題、土地問題。問題やまずみなこと、きっと生き物の本能として、脳の奥にインプットされているのかもしれない。
だから、政治家が、LGBTに批判的な発言をすると、烈火のごとく叩かれる。
子供をもうけられないことが非生産性と捉えられることは、明らかに差別だが、それと同時に、これ以上、日本の狭い国土に人口を増やすことは、滅びに繋がるというような本能があるのかもしれない。
私は、でも、子供は絶対的に、愛されなければならないと思っている。絶対に、命は愛され、冒涜されてはならないと思っている。
唐揚げをたべながら。どこかのブロイラーで、狭い檻の中で一生を終える鶏をおもいながら。
神経性頻尿との付き合い方
神経性頻尿と付き合う事10数年・・・。(遠い目)
その、付き合い方と、対処法について、経験に基づき考えてみたい。
きっかけ
それは、些細なこと。当時私は会社員。月に一度の会社の会議。それは大抵、2時間から、長くても3時間。途中で休憩を一度挟み、行われるアレです。
その頃私は新入社員、初めて会議の書記に選ばれ、気合十分。専務や主任に間を挟まれ忙しくペンをカリカリやっていた。その会議後半に、わずかながら、尿意を感じ始めていた。さっき、休憩を挟んだばかり、その時にトイレに言っておけばよかった・・・。
などと気楽に考えていた。まぁ、いつか終わるでしょう・・・。
「え、ではこれから本題に入ります。」
え?ちょっと待って、これから?てことは、まだ現段階、起承転結の「起承」部分にすぎないと?隣の主任は聞こえるか聞こえないか程の溜息をついた。
まだ、ながくなる・・・。のか・・・?
そこから一気に私の尿意が強くなっていった。
ワタシ、ショキ 。ココ、ヌケラレナイ。
そのとき、ふと、中学時代の漏らし事件を思い出した。それと同時に、動悸が始まり、手にジワジワと汗。やばい!と思い、足をクロスさせ、尿道を物理的に絞める。
それからの時間、私は耐えた。ひたすらに耐えた。社長の言葉に耳を傾けるが、なにも私には届かない。あぁ、どこか遠い異国の言葉のようだ・・・。
その後
私は、乗り切った。そして会議が終わった途端、なぜか先ほどまでの強烈な尿意が和らいでいた。あ、なんだ、大丈夫だったんだ。そう思いながらも一応トイレに行った。
その日を皮切りに、私は会議中、バスの中、電車の中、デート中、果ては誰かと一対一で話す場面で、必ずその強い尿意に襲われた。
誘発に至る心因
- 「漏らすかもしれない」という恐怖(過去に漏らし済み)
- トイレにしばらくいけないかもしれない、という思い(シャトルバスなど)
- 例えば、一対一で話す場合、相手がマシンガントークであったり、熱い思いを抱いて話していると感じると一気に尿意に襲われる。
- 「あ、ちょっとトイレに行ってきますね」と言えばいいだけなのだが、話の腰を折るのではないか、今までオシッコ我慢して聞いていたのか?と思われ失礼ではないか?と考えすぎてしまう。
- 以前、上司の長話中に二度もトイレに立ち、その際、「胆石さん、またトイレー?ちゃんとしてくださいよー。」と多数の前で注意されたことがある。
以前とっていた対策
- 高速バスやシャトルバスなどには極力乗らないようにした。
- 飛行機に乗るときは、通路側の席を指定する。(本当は窓側が好きだった泣)
- 私はカフェイン中毒で、毎日コーヒーを、それこそフランス人がペリエとか飲むくらいの頻度(想像)で飲んでいたのだが、外出日には朝からデカフェに切り替えた。(緑茶、紅茶、ウーロン茶もしかり)
- ここぞという場面では水分摂取を控え、ペットボトルのキャップから死に水の如く口を湿らせる程度の水分摂取に留めた。
- 果物のジュースなどはオシッコになりやすいため飲まず、さらに水より尿になりにくいポカリやアクエリを飲むようにした
- トイレでは、尿だけでなく、口内の唾液も絞り出し尿と共に流した。
- その後転職したのだが、自由にトイレにいける職場を選んだ。
しかし、それでも状況はほとんど改善しなかった。のだ。
十分前にトイレに行ったにもかかわらず、襲いかかる強烈な尿意。水分を取っていないのに、外出時何度もトイレに行ってしまう。そして、まぁ、わりとそこそこ尿量が出るのだ。
もうボーコー云々の問題ではなく、まさに心因性の心因性たる所以なのだが、トイレを心配するあまり、そのことが頭から離れない、ちょっとした強迫性障害のそれだ。
あれ、ガス閉めたかな?鍵かけたかな?一度確認しても、またすぐに心配になる。
よく、「トイレの事考えなければいいんだよ」といわれるが、そんなこと、百も承知で、
その事象を考えないようにすればする程あたまから離れてくれない。
おすな、おすな、と言われて、押して成り立つギャグのように
考えるな、考えるなという事と、考えてしまう、湧き上がってくる不安はもう、それは一つのダチョウ倶楽部と熱湯風呂のようなお家芸なのだ。
そのため、外出が苦痛になり(家では何時間でもオシッコを我慢できるのだ。)本格的に生活に支障が出てきたためとうとう、病院へ行くことにした。
もちろん病院に行く前にドラッグストアの市販の薬も何度となく試していた。
その大体が、尿漏れや夜間の頻尿用で、それ以外の薬もほとんど効果は感じなかった。
病院
これは、心因性だろう、とタカをくくっていた私は四の五の言わず心療内科へ向かった。暗い目をした私はとてもその場に馴染み、ここでだったら、私別に、いいんだ。最悪漏らしても病院だし、だってどこかおかしいんだもん、私の体。
これは、とても失礼にも思えたが、逆に私を助けた思いだった。そう、別に、私、ちゃんとしてなくていい。病院の待合室で少し解決の糸口が、見えてきたような気がした。
その後、神経性頻尿と診断されたが、一応泌尿器科にも行って、一度診察を受けてほしいと言われ、近所の泌尿器科に言った。その頃あたりから、過活動膀胱のテレビCMが流れだし、「一度、検査を」と、優しい声で藤田弓子さんが言うものだから、すっかりぬるま湯の私は、診察室から
「胆石さーん」
と呼ばれるまで温かい藤田弓子の言葉に包まれていたのだが、そこに入ると看護師が
「パンツを脱いで、ここに寝てくださいねー」
と軽快な口調でおっしゃる。
「脱いで、どういたしましょうか・・・。」
事態を飲み込めない私は、おずおずと看護師の顔をのぞくと
と、「あ、カラオケでもいくー?」くらいの、親しさと軽さで言ってくるではないか。
そんな、予定私には無かった。だって、あんなちーさい穴に、何かしらの管を逆流させるわけでしょ?絶対、イタイでしょ!自分でも、なにがどうなってんだかよくわからない部分なんだぜ、恐すぎる!
「え、ちょっとまってくださいねー、少し時間かかりますかー?」などと忙しい振りをしつつ、ここは検尿で、の流れに持っていきたい私。
「すぐ、終わりますよー。これ、しないと診察にはいれないからー。」と追い込む看護師。私は、そこで、観念し
「すみません。気持ちの準備が出来てなくて、ちょっと今日のところは、一度家に持ち帰って、考えてみます。」と、気弱に答えた。
結果、しょうがないですね、と言ってもらえ、私は無事恐怖のカテーテルを脱した。帰りの祭の受付はなんともいたたまれない空気で、私は背中を丸めて早足に病院を出た。35歳の夏だった。
検査について
全ての病院でカテーテルでの検査があるのではないようだ。どうしても、抵抗がある方は(私は根性がなかった)、わたしの二の舞にならぬよう、あらかじめ行く病院に電話をして確認してみることをお勧めする。
結果
私は、大人用おむつを、必要な場面では使用することになった。
ようは、この頻尿を治そう、という頭から、漏らしても大丈夫なようにすればいいじゃん!にシフトしたのだ。
その結果、私の頻尿はかなり軽減されたのだ。
後日、実際に使用した感想や、着用感についても書いていきたいと思う。
割といい大人が2、3度漏らしたりしてるけど、今楽しく生きてるよ。(大、中、小共に)
思い出すと、過去の一番イタイ記憶は、失恋でも、わき毛ボーボーでノースリーブを着てデートしてしまったことでもなく
OMORASI!!!
そう、おもらしです・・・。私は数度ほど、それで人生をリタイヤしかけたことがある。
第一章
まず、一つ目は中学の全校集会でのおもらし・・・。
あれは、桜舞う、四月の出来事だ。木々の緑は柔らかく私を包み、小学生から中学生へと変わる自分、これから新しい友と語らい、時に恋をしたり、部活や勉強に励んだり、私は希望に満ち溢れていた。入学式翌日、体育館で全校集会が行われた、前半は、各部活動の紹介。PTAの話。そして最後に校長先生の話の間に尿意を感じ始めた。床に体育座りをしていた生徒たち。丁度オセロで言うところの、真ん中のあたりに私は座っていた。今、ここで立てば、とても目立つ!
アイツ、おしっこが我慢できなかったのか、と囃し立てられるかもしれない。
もしくは、「こんなッタリー話なんか聞いてられっかよ!」と席を立ったように思われて、スケバンに目を付けられるかもしれない。(当時まだ、スケバンは普通にいた。)
なんてことを考えているうちに、尿意が限界をこえ、失敗してしまったのだ。
今なら、吐きそうな振りをする、とか貧血を装って倒れてみるとか、方法はあったはずだが、その当時の私にはそこまでの考えには至らなかった。
ちなみに、その後、一週間程、登校拒否になった。もっと言えば、
「死にたーい」となっていた。その空気は家庭内の夕食時間も重たくし、母親も担任の先生から聞いて知っているはずだが、その話題に触れず、私が学校に行かなくなって数日後、普段ほとんど話さない父親が「ちょっと、いいか」と部屋に入ってきた。
私は父親と目をあわせず、ずっと窓の外を見ていた。スズメがとんでいて、
(あぁ、スズメは良いな。どこでもおしっこできるんだもの。)とうつろに考えていた。父はそんな私と特に目を合わせるわけでもなく、私の背中に
「父さんはなぁ、高校入試の時にな、下痢便もらしたんや。泣きながら家に帰ったんやけど、ズボンの裾からうん〇がポロポロ出てきてな、ヘンゼルとグレーテルみたいやったわ。結局その高校に受かってしまってな、しばらく友達出来んかったわ。」
と、神妙に語りかけ、私は
「うん。」
とつぶやいて、父はそれ以上何も話さず静かに部屋を出た。
翌日から私は登校した。今思えばものすごい勇気である。それから、徐々に友人が出来私の中学生ライフは終えることが出来た。しかし、その経験から、私は目立つことを避け、なるべくひっそりと存在するように心がけていた。そして、高校は市外の誰も私を知らない学校へ入学したのだ。
第二章
次は、高校センター模擬試験会場での尿漏れアンド爆音のオナラ。その日、プレッシャーに弱い私は、朝からお腹が張っておりテストの中盤くらいから、時々、襲われるオナラの波を我慢していた。マークシートを塗りつぶし鉛筆の芯がすり減っていくとともに、私の下々の筋力も消耗していく。このままでは、テストに集中できない。そうだ!それはうまくスカシッペを決めればいいだけの話。
という事で、一か八か、私は勝負に出た。お腹の具合からいくと勝算は8対2で、こちらに軍配があがるはずだった。
そう、上がるはずだったのに・・・。私は負けたのだ。
静寂の教室内にバリバリブボボォ~という、割とでかめの音が放たれ、私はその数秒間目の前が真っ暗になった。
これは、決して比喩ではなく、本当に目の前が真っ暗になったのだ。そして、その数秒間で私はジョロっと少量の尿漏れ。
とりあえず、そこから我に返った私は傾向と対策を練ることにした。
というより、傾向は結果として出ている。この状況を一ミリでもいい、改善できれば。そうだ、対策だ。ここで一番重要なのは、センター試験の結果ではない。もう、そこで色々間違っているのだが、私はあがくことに決めた。
思春期のプライドをもって!
まず、座っている椅子をひくふりをして、床面と椅子の脚部分のゴム面とを擦り合わせ、その摩擦で音を生じさせる、という手段だ。
これは、授業中、お腹のグゥーという音をカモフラージュするために万人が、一度は行ったことがある方法ではなかろうか。
まず、この方法を試してみるが、音の質が違う。まず、音の周波数がちがうのだ。
これはだめだ。では次に、鼻をすすりつつ、喉の奥の方で、扁桃腺を揺らしブルルという音を出してみる。これは、音の出どころが、根本的には同じ人体という意味でも有効であるように思えた。
確かに、先ほどの椅子や机を動かす音より、リアルである。そして、他に変わるものがないため、私はその作戦を推し進めることで、少しの心の安定を求めたのだ。試験時間後半、私はズーズーと、空鼻をすすりまくり、数学の問題より、己のケツ穴問題に重きを置きすぎて、数学の結果が散々だったのは言うまでもない。
第三章
今までの経験からみれば、今からの経験はライト級だ。
私は、自転車で出勤していた。前日焼酎の牛乳割をしこたま呑んだせいで、お腹はゆるゆるだった。出勤前、家でしっかりと出すもの出してきていたため、心のどこかに油断が生じていた。自転車をこぎながら、オナラを出そうとサドルから軽くケツを上げた。
ぷす、ぷすと軽快にガスが出る。出ると共に、お腹も軽くなってくる。私は調子に乗りその後も、波がきたら「ケツ上げぷすぷす走行」でリズムを取りながら、自転車をこぐ。
道は下り坂。夏風を感じたくて、すこし大胆になった。
再びケツ上げ、一発目、「あ」と思った。熱い何かが、股のあたりに広がっていくのを感じた。おそるおそる、股をみる。「よかった」
今日は黒ズボンをはいていた。目立った外傷はない。いける、これなら、いける!
家に引き返すと完全に遅刻だ。よし、もうこのままいく!
当時介護職で働いていた私は、職場につくなり、先日退所したAさんの置き土産のオムツを一枚頂いた。そして、入浴介助時の短パンに着替えた。仕事中同僚に
「なんで、短パンなの?」と幾人にも問われたが、来る途中、こけてズボンが相当汚れたから、と力技で押し切った。何人かは気が付いていたと思う。匂いで。
これが、私とオムツとの出会いの始まりである。
この出会いは、様々な局面でその後の私を助けてくれることとなる。その話はまた、いずれ書きたいと思っている。
そして、私が一番言いたいのは、
死ぬほど恥ずかしいことあるけど、今、フツーに生きてるよ。と過去の自分に言ってあげたい。